山本健吉資料室
(昭和63年4月 長崎にて)
日本を代表する文芸評論家で文化勲章受章者の山本健吉と妻で俳人の石橋秀野の遺品等を展示する「山本健吉資料室」は、 平成26年10月10日、八女市立図書館本館2階に開所しました。
山本健吉・石橋秀野について
【山本 健吉】(1907-1988)
文芸評論家。文芸評論家・石橋忍月(八女市黒木町出身)の三男として、長崎県長崎市磨屋町(現:長崎市古川町)に生まれました。本名は石橋貞吉。
長崎県立長崎中学校より慶應義塾大学文科予科に入学。在学中、教授であった折口信夫(釈迢空)に師事。
日本文学史・芸能史に目を向ける契機となりました。昭和4年(1929)文化学院在学中の藪秀野と結婚。
大学卒業後、改造社に入社。雑誌「俳句研究」に携わり、俳句批評に精進するようになりました。
昭和14年中村光夫らと「批評」を創刊。同誌に連載したエッセーを集め、昭和18年はじめての評論集『私小説作家論』を刊行。
戦中から戦後にかけて、京都日日新聞社文化部長や角川書店勤務を経て、昭和30年(1955)『芭蕉』で新潮社文学賞受賞。
翌31年『古典と現代文学』で読売文学賞を受賞するなど、批評家としての地位を確立。
その後も古典文学に関する優れた評論を発表し、昭和58 年(1983)文化勲章受章。
国文学の豊かな素養をもつ数少ない評論家として、古典から現代まで鋭い評論活動を展開しました。
俳句の研究でも知られています。
その他の代表作として『柿本人麻呂』(読売文学賞受賞)や『詩の自覚の歴史』(日本文学大賞受賞)、『いのちとかたち』(野間文芸賞受賞)などがあります。
昭和63年5月7日死去。81才。墓は福岡県八女市本町の石橋家菩提寺 「浄土宗若泰山光明寺無量寿院」にあります。
【石橋秀野】(1909-1947)
俳人。父藪楢太郎、母由栄の四女として奈良県山辺郡二階堂村(現:天理市二階堂)に生まれました。
奈良県師範学校附属小学校卒業後、家族とともに上京。
文化学院中等部に入学。学監与謝野晶子に和歌、高浜虚子に俳句を学びました。文化学院大学部を中途退学し、昭和4年(1929)慶応義塾大学生石橋貞吉(後の文芸評論家山本健吉)と結婚、石橋姓となりました。学生結婚の生活苦のなか、両人は一時左翼活動にかかわった時期もありましたが、やがて運動から離脱。
昭和13年(1938)頃より、横光利一(小説家・俳人)の十日会(俳句会)に参加。石田波郷(俳人)に影響を受け、本格的な作句を開始。
その後『鶴』(俳誌)同人、同誌課題句選者となり、『鶴』を代表する女流俳人として活躍します。
昭和17年長女安見誕生。昭和20年(1945)夫が島根新聞社勤務となり松江に移住。
松江、鳥取の『鶴』俳人達と句会を催しました。
昭和21年(1946)7月、夫が京都日日新聞社論説委員となったため京都に転居。
その後、肺結核と腎臓病を病み、昭和22年(1947)9月26日、 京都宇陀野療養所にて逝去。38歳。
墓は福岡県八女市本町の石橋家菩提寺 「浄土宗若泰山光明寺無量寿院」。
没後、昭和23年第1回茅舎賞(現・現代俳句協会賞)を受賞。翌昭和24年、夫健吉により句文集『櫻濃く』が刊行されました。
石橋 秀野 略年譜 (1909 - 1947)
年 号 | 満年齢 | 事 項 |
---|---|---|
1909(明治42) | 0 | 2月19日 奈良県山辺郡二階堂村(現・奈良県天理市)に 父・薮 楢太郎、母・由栄の四女として生まれる |
1921(大正10) | 12 | 3月 奈良県師範学校附属小学校卒業 |
1923(大正12) | 14 | 大阪ウィルミナ高等女学校から文化学院中学部2年に転入し、短歌を与謝野晶子、 俳句を高浜虚子から学ぶ |
1925(大正14) | 16 | 高浜虚子により『ホトトギス』に俳句に関する一文が紹介される |
1926(大正15) | 17 | 3月 文化学院中学部卒業 4月 文化学院本科(大学部)に入学 この頃『ホトトギス』に投稿 |
1928(昭和3) | 19 | 4月 ホトトギス婦人俳句会に出席 |
1929(昭和4 ) | 20 | 9月25日 石橋貞吉(本名・山本健吉)と結婚 解放運動犠牲者救援会の活動に参加 |
1932(昭和7) | 23 | 左翼運動より離脱 句誌『愛吟』に健吉とともに参加 |
1938(昭和13) | 29 | 横光利一を中心とする文壇人の俳句会「十日会」に参加 本格的な句作再開の契機となる |
1940(昭和15) | 31 | 俳誌『鶴』6月号に作品「八十八夜」6句と随筆『鎮魂歌』を発表 新宿の中村屋俳句会その他を指導 |
1942(昭和17) | 33 | 1月20日 長女・安見 誕生 |
1945(昭和20) | 36 | 島根県玉造に疎開(健吉・島根新聞社に勤務) 11月 松江市南田町の島根新聞社寮に転居 『鶴』山陰支部機関誌「雲」の俳人ら末次雨城・古津隆次郎・門脇顕正・宮本白土らと交友 |
1946(昭和21) | 37 | 旧制松江高等学校俳句会の指導にあたり、機関誌『みづうみ』に作品を寄稿 |
1947(昭和22) | 38 | 7月 健吉の京都日日新聞社転職に伴い京都へ移住 発病 8月 谷沢白城・国吉冬濤子・本多脩らの「衢(ちまた)俳句会」を指導 7月21日 京都市の国立宇多野療養所に入院 「蝉時雨 児は擔送車に追ひつけず」を詠み絶句となる 9月26日 肺結核と腎臓病のため逝去 戒名・寶池院秀譽瑠璃妙相大姉 |
1948(昭和23) | 第1回川端茅舎賞受賞 | |
1949(昭和24) | 3月10日 健吉の編集による句文集『桜濃く』が上梓される | |
1954(昭和29) | 『鶴』山陰支部の末次雨城・古津隆次郎らの尽力により鳥取県 西伯郡中山町・中里神社に波郷揮毫による秀野句碑が建立される |
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1975(昭和50) | 8月10日 福岡県八女市本町の浄土宗・無量寿院「石橋氏累代之墓」に納骨 | |
1999(平成11) | 5月7日 旧木下家住宅(堺屋)内で句碑が除幕される | |
2014(平成26) | 10月10日 八女市立図書館2階に「山本健吉資料室」開館 | |
2016(平成28) | 9月26日 秀野70回忌の追善法要を営む |
参考文献 『俳句研究』 昭和63年 8月号
平成28年9月26日 八女市文化振興課